「不在の選挙」展 第七声
イシワタマリ
子どもの頃から歴史の授業が苦手だ。卑弥呼が、徳川家康が、ナポレオンが・・・とにかくピンとこない。そんな中、教科書になんだか異彩を放つ一文があったのを覚えている。「富山の漁村の主婦たちが米の安売りを求めて米屋に押しかけた」・・・おぼろげな記憶を頼りにネット検索してみると、大正7年(1918年)に日本全国で巻き起こった「米騒動」の話である。
私は今、京都府北部の山奥で主婦をしている。人より鹿のほうが多いかもしれないくらいの過疎集落で、夫は地方公務員だ。地域で親しいおじさんの建設会社には安倍総理のポスターが貼ってあり、その迷いのなさは牧歌的にさえ見える。ここは日本。そして首都・東京は果てしなく遠い。
・・・私は横浜の新興住宅街に育ち、満員電車に揺られて東京の学校に通い、日本=東京だと思って生きてきた。日本=東京が嫌いで海外に暮らしたこともある。今いるこの山奥、ここも日本だなんて、誰も教えてくれなかった。知る由もなかった美しい世界が広がっている。私はほんとうに無知だったのである。知ってほんとうによかったと思う。にしても、SNS上の友人知人たちとの物理的・心理的距離が果てしなく遠い。SNSやテレビで垣間見る首都・東京のようすはまるで別の惑星のことのようで、選挙だなあ、選挙だなあ、日本どうなるのかなあ・・・というもやもやを共有する相手はSNS上を除いては山や鹿やヤモリしかいない。
主婦、という肩書きは便利だ。何をしていても何もしていなくても、主婦と名乗ればそれ以上咎められることはない。今どき主婦ったって色々あるだろうけど、それでもやっぱり、スーパーの袋からネギをのぞかせて少し疲れた感じの服装で子どもの手を引いて歩いてそうな感じがするし、実際そんなもんだったりもする。歴史の教科書で見た「富山の漁村の主婦たち」という言葉からは、家族や生活のことを第一に考えるけなげでたくましい無名の集団が連想される。ネット検索によれば、「米騒動」は内閣を倒したいマスコミが主婦たちのささいな一コマを暴動に仕立て上げて煽りに煽った結果というのが実際のところだそうで、それでも一連のできごとを経て当時の内閣は総辞職した。主婦たちもびっくりしただろうし、マスコミの横暴さにかえって憤ったかもしれない。無名の市民たちが時の権力を動かす・・・というシナリオが半ばつくりものだったとしても、そこに何らかの「時代のうねり」があったことは確かだと思う。
時代のうねり。
古今東西どこでもかしこでも、時代は常にうねっている。うねりが水面下に隠れた時期のことは歴史の教科書でも省略されているけれど。日本社会で重要視される「空気を読む」という能力を研ぎ澄ませれば、5年前の東日本大震災・原発事故あたりから(もしかしたらもっとずっと前から)「毎日読んできた結果、なんかちょっとだんだん空気変わってきた」みたいなことに気付かないだろうか。あるいは、「空気変わってきた、時代うねってきてる」と気づいているのは、むしろふだん「空気読めない」と言われがちな人たちのほうかもしれない。うねっていることはわかっても、具体的な予言ができるわけではないものだと思う。うねっているという事実は、ただただ、誰にも止めることができない。
時代のうねりを止められない、ということはしかし、何をしても無駄だよ、という意味ではなくてむしろその逆だ。時代はうねっている。既に。常に。だからこそ、小さくて確かな日常の1コマ1コマを、自分がこうだと思うことにコツコツと費やすのだ。私は生き延びたい。時代がどの方向にうねり、どんな変化に直面することになろうとも、自分や自分の周囲の大切なひとたちが生き延びる方法をいつも考えたい。
今ここにあるうねりを止めることはできない。でも生き延びていれば必ず、ちっぽけなひとりひとりの存在が、次の時代のうねりを生み出していくはずだから。
2016年7月8日
不在の選挙 第七声担当者
イシワタマリ
イシワタマリ
子どもの頃から歴史の授業が苦手だ。卑弥呼が、徳川家康が、ナポレオンが・・・とにかくピンとこない。そんな中、教科書になんだか異彩を放つ一文があったのを覚えている。「富山の漁村の主婦たちが米の安売りを求めて米屋に押しかけた」・・・おぼろげな記憶を頼りにネット検索してみると、大正7年(1918年)に日本全国で巻き起こった「米騒動」の話である。
私は今、京都府北部の山奥で主婦をしている。人より鹿のほうが多いかもしれないくらいの過疎集落で、夫は地方公務員だ。地域で親しいおじさんの建設会社には安倍総理のポスターが貼ってあり、その迷いのなさは牧歌的にさえ見える。ここは日本。そして首都・東京は果てしなく遠い。
・・・私は横浜の新興住宅街に育ち、満員電車に揺られて東京の学校に通い、日本=東京だと思って生きてきた。日本=東京が嫌いで海外に暮らしたこともある。今いるこの山奥、ここも日本だなんて、誰も教えてくれなかった。知る由もなかった美しい世界が広がっている。私はほんとうに無知だったのである。知ってほんとうによかったと思う。にしても、SNS上の友人知人たちとの物理的・心理的距離が果てしなく遠い。SNSやテレビで垣間見る首都・東京のようすはまるで別の惑星のことのようで、選挙だなあ、選挙だなあ、日本どうなるのかなあ・・・というもやもやを共有する相手はSNS上を除いては山や鹿やヤモリしかいない。
主婦、という肩書きは便利だ。何をしていても何もしていなくても、主婦と名乗ればそれ以上咎められることはない。今どき主婦ったって色々あるだろうけど、それでもやっぱり、スーパーの袋からネギをのぞかせて少し疲れた感じの服装で子どもの手を引いて歩いてそうな感じがするし、実際そんなもんだったりもする。歴史の教科書で見た「富山の漁村の主婦たち」という言葉からは、家族や生活のことを第一に考えるけなげでたくましい無名の集団が連想される。ネット検索によれば、「米騒動」は内閣を倒したいマスコミが主婦たちのささいな一コマを暴動に仕立て上げて煽りに煽った結果というのが実際のところだそうで、それでも一連のできごとを経て当時の内閣は総辞職した。主婦たちもびっくりしただろうし、マスコミの横暴さにかえって憤ったかもしれない。無名の市民たちが時の権力を動かす・・・というシナリオが半ばつくりものだったとしても、そこに何らかの「時代のうねり」があったことは確かだと思う。
時代のうねり。
古今東西どこでもかしこでも、時代は常にうねっている。うねりが水面下に隠れた時期のことは歴史の教科書でも省略されているけれど。日本社会で重要視される「空気を読む」という能力を研ぎ澄ませれば、5年前の東日本大震災・原発事故あたりから(もしかしたらもっとずっと前から)「毎日読んできた結果、なんかちょっとだんだん空気変わってきた」みたいなことに気付かないだろうか。あるいは、「空気変わってきた、時代うねってきてる」と気づいているのは、むしろふだん「空気読めない」と言われがちな人たちのほうかもしれない。うねっていることはわかっても、具体的な予言ができるわけではないものだと思う。うねっているという事実は、ただただ、誰にも止めることができない。
時代のうねりを止められない、ということはしかし、何をしても無駄だよ、という意味ではなくてむしろその逆だ。時代はうねっている。既に。常に。だからこそ、小さくて確かな日常の1コマ1コマを、自分がこうだと思うことにコツコツと費やすのだ。私は生き延びたい。時代がどの方向にうねり、どんな変化に直面することになろうとも、自分や自分の周囲の大切なひとたちが生き延びる方法をいつも考えたい。
今ここにあるうねりを止めることはできない。でも生き延びていれば必ず、ちっぽけなひとりひとりの存在が、次の時代のうねりを生み出していくはずだから。
2016年7月8日
不在の選挙 第七声担当者
イシワタマリ