「不在の選挙」展 選挙という行為についての考察する展覧会 第二声の為のメモ
吉川晃司
今日は夕方に突然雨が降りました。
それも出かけるタイミングにばっちり降り始めが重なったので、急遽傘を用意して江戸川橋の駅まで行きました。
https://youtu.be/ZaWMywT3OaY
「傘は拾われる」という映像を過去に作りました。
Aが傘をさして駅にやってきて、駅前に傘を置く、Bがそれをさして町へ出かけていく。
今日はなんとなく同じことをやってみようと思って(どうせすぐ止む雨なのだろうし)、傘を江戸川橋駅の出口に立てかけておきました。
現時点でまだそのまま立てかけてあるのかな、もしかすると誰かがあの傘をさして家に帰っているかもしれない。
僕と筒井佳樹でやっている「スタジオまめちょうだい」は、
その時々で何かを取捨選択するのではなく、可能性の芽をいくつも作ることで少しでも決定を先延ばしにしようとする。
本棚を作る時も、棚の長さや間隔は自分たちでは決められない。誰かに決めてもらう。
展示空間を作る時も、自分たちで展示台の高さを決められない。誰かに決めてもらう。
今回の参議院選挙では、ある政党のスタンスが面白いと筒井が指摘していました。
僕はその政党のことをネットでイロモノ扱いされている変な政党、としか認識していなかったけど、
話を聞いていると、それは既存の政治の仕組みにバグを作るウィルスなのだと感じた。
良い可能性も悪い可能性もはらんでいる。選択を先延ばしにする可能性の芽なのだと思った。
僕たちには決定が不在している。
あらゆる場面で可能性は生み出すが、決定は先送りされる、ある時点で何者かによって決定される。
お施主さんだけではない、施工業者・行政あるいは他者としての筒井佳樹/吉川晃司。
今回の選挙で言うと、その何者かは、多くの有権者やそうでない人たちなのかもしれない。
決定者は自分ではないのは確かだと思いませんか?
自分が不在している選挙。
--
日本の美術の潮流の中でP3や佐賀町エギジビットスペースが、美術館・コマーシャルギャラリーに対しての第三の存在であるオルタナティブスペースとして認識されたことは、
今現在もオルタナティブスペース/アーティストランスペースと呼ばれる場所(今回会場となるfloatやドマトトコなど)の存在を担保させる一つの材料になっていると思います。
しかし一方で、存在が定義されてしまうことで、次に来たるカウンターの標的となる。
そこで、主体的に不在する・自らを不在とみなす、というのは有効なスタンスのように感じます。
floatについては、名の通り「float-ing」が手法となってすべての問題を回避しようとしている。
スカイツリー・ソラマチ・曳舟駅前などの規模の大きい開発が行われる町の中で、
「駒」を置くように賃貸契約という陣地取りをして、ジェントリフィケーションへ自己矛盾的(※)な抵抗をする。
(※float自体が周辺環境を変え兼ねないという意味で)
これから起きるであろう周辺地域の家賃高騰・取り壊し・都市の開発に対して、いかに振る舞うのでしょうか。
周辺で起きている都市の様々な状況とは別のレイヤーで、町の中で浮遊するように建物を維持することはできるのでしょうか。
またはこの場所で建物が維持できなくなった場合の脱出方法については?概念自体はどこかにコピー可能なの?
来たるカウンターに対しては、できるだけ軽やかにかわしたい!
http://mamechoudai.jp/?p=86
「廃墟は生き続ける」という作品では、
ある一つの建物が様々な可能性をはらみながら、倒壊・増築を繰り返していきます。
決定権は僕たちにはありません。あらゆる可能性が生成されていきます。
この建物を設計した磯崎新という人は何をもってこの廃墟図を描いたかというと、
一元的な権力によって作られた都市計画・制度は将来的な崩壊の危険をはらむ、という破壊者S(SIN=新)としての意見表明です。
都市の虚構性を指摘するための、反転したカンピドリオ広場・アル=ケ=スナンの柱の様式。借り物のモチーフで作られた建物。
歴史・都市という主体の不在によってこの廃墟生成システムは駆動します。
システムが駆動すればするほど設計・計画という行為は無効化します。
「不在の選挙」とは「選挙」に様々な「不在」を見出すことで、そのシステムを私たちの認識の上で無効化するための一つの手段なのだと思います。
単なるメタ認知なのかもしれません。現実に何も影響を及ぼさないかも。
私たちは表現として選挙を扱うことで現実をモチーフにする。無意味なことかもしれません。
けれど、見た風景を絵に描くこと。これは無意味なこととはされてこなかったはず。
明日にはゴミとして捨てられている、誰かが処分に困っているかもしれません。
置いてきた傘は今どうなっているか分かりません。
2016年7月4日
不在の選挙 第二声担当者 吉川晃司
吉川晃司
今日は夕方に突然雨が降りました。
それも出かけるタイミングにばっちり降り始めが重なったので、急遽傘を用意して江戸川橋の駅まで行きました。
https://youtu.be/ZaWMywT3OaY
「傘は拾われる」という映像を過去に作りました。
Aが傘をさして駅にやってきて、駅前に傘を置く、Bがそれをさして町へ出かけていく。
今日はなんとなく同じことをやってみようと思って(どうせすぐ止む雨なのだろうし)、傘を江戸川橋駅の出口に立てかけておきました。
現時点でまだそのまま立てかけてあるのかな、もしかすると誰かがあの傘をさして家に帰っているかもしれない。
僕と筒井佳樹でやっている「スタジオまめちょうだい」は、
その時々で何かを取捨選択するのではなく、可能性の芽をいくつも作ることで少しでも決定を先延ばしにしようとする。
本棚を作る時も、棚の長さや間隔は自分たちでは決められない。誰かに決めてもらう。
展示空間を作る時も、自分たちで展示台の高さを決められない。誰かに決めてもらう。
今回の参議院選挙では、ある政党のスタンスが面白いと筒井が指摘していました。
僕はその政党のことをネットでイロモノ扱いされている変な政党、としか認識していなかったけど、
話を聞いていると、それは既存の政治の仕組みにバグを作るウィルスなのだと感じた。
良い可能性も悪い可能性もはらんでいる。選択を先延ばしにする可能性の芽なのだと思った。
僕たちには決定が不在している。
あらゆる場面で可能性は生み出すが、決定は先送りされる、ある時点で何者かによって決定される。
お施主さんだけではない、施工業者・行政あるいは他者としての筒井佳樹/吉川晃司。
今回の選挙で言うと、その何者かは、多くの有権者やそうでない人たちなのかもしれない。
決定者は自分ではないのは確かだと思いませんか?
自分が不在している選挙。
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日本の美術の潮流の中でP3や佐賀町エギジビットスペースが、美術館・コマーシャルギャラリーに対しての第三の存在であるオルタナティブスペースとして認識されたことは、
今現在もオルタナティブスペース/アーティストランスペースと呼ばれる場所(今回会場となるfloatやドマトトコなど)の存在を担保させる一つの材料になっていると思います。
しかし一方で、存在が定義されてしまうことで、次に来たるカウンターの標的となる。
そこで、主体的に不在する・自らを不在とみなす、というのは有効なスタンスのように感じます。
floatについては、名の通り「float-ing」が手法となってすべての問題を回避しようとしている。
スカイツリー・ソラマチ・曳舟駅前などの規模の大きい開発が行われる町の中で、
「駒」を置くように賃貸契約という陣地取りをして、ジェントリフィケーションへ自己矛盾的(※)な抵抗をする。
(※float自体が周辺環境を変え兼ねないという意味で)
これから起きるであろう周辺地域の家賃高騰・取り壊し・都市の開発に対して、いかに振る舞うのでしょうか。
周辺で起きている都市の様々な状況とは別のレイヤーで、町の中で浮遊するように建物を維持することはできるのでしょうか。
またはこの場所で建物が維持できなくなった場合の脱出方法については?概念自体はどこかにコピー可能なの?
来たるカウンターに対しては、できるだけ軽やかにかわしたい!
http://mamechoudai.jp/?p=86
「廃墟は生き続ける」という作品では、
ある一つの建物が様々な可能性をはらみながら、倒壊・増築を繰り返していきます。
決定権は僕たちにはありません。あらゆる可能性が生成されていきます。
この建物を設計した磯崎新という人は何をもってこの廃墟図を描いたかというと、
一元的な権力によって作られた都市計画・制度は将来的な崩壊の危険をはらむ、という破壊者S(SIN=新)としての意見表明です。
都市の虚構性を指摘するための、反転したカンピドリオ広場・アル=ケ=スナンの柱の様式。借り物のモチーフで作られた建物。
歴史・都市という主体の不在によってこの廃墟生成システムは駆動します。
システムが駆動すればするほど設計・計画という行為は無効化します。
「不在の選挙」とは「選挙」に様々な「不在」を見出すことで、そのシステムを私たちの認識の上で無効化するための一つの手段なのだと思います。
単なるメタ認知なのかもしれません。現実に何も影響を及ぼさないかも。
私たちは表現として選挙を扱うことで現実をモチーフにする。無意味なことかもしれません。
けれど、見た風景を絵に描くこと。これは無意味なこととはされてこなかったはず。
明日にはゴミとして捨てられている、誰かが処分に困っているかもしれません。
置いてきた傘は今どうなっているか分かりません。
2016年7月4日
不在の選挙 第二声担当者 吉川晃司