「不在の選挙」展 第九声
丹羽良徳
現在ウィーンにいる。正確にいえば、ウィーン国際空港から日本に一時帰国する途中である。日本を出国した3月末、いつのまにか民主党と維新の党が合流して「民進党」というのを結党したというニュースをちらっと見て、また何か変な名前の党ができて、何がなんだかわかんねえな。とウィーンで思った記憶がある、実際は引っ越しでバタバタしすぎていて、それどころはなかったけれど。それから初めての選挙といことになって、僕は海外在住になっているので在外選挙人の名簿に登録しなければいけない。すでに手続きをしてあるが、3ヶ月要件といって現地に3ヶ月以上継続して住んでいることを確認されて(手続きだけは3ヶ月以前でもできる)それからようやく現地大使館を通じて日本の外務省へ情報が送られてるそうだ。そかもその照会になぜか2ヶ月くらいかかるそうであるが、理由は不明である。つまり、僕は3月末にウィーンに到着して6月末でようやく「3ヶ月要件」をクリアして、在外選挙人の名簿に登録を進めているのだが、投票可能なステータスになるのはここから2ヶ月かかるという説明なので、現実的に僕は今回の衆院選に投票する方法がない。つくづく不思議な制度だと思うけれど、選挙だけが政治参加の機会ではないはずのあので、投票にいけば、それですべて終わりだと考えてしまうほうのほうが、よっぽど怖いものだ。本来は、民主主義と呼ばれる制度のなかには、無数の政治参加の機会があって、出版することでも、声明だすことでも、食べること、逃げること、壊すこと、何でもかまわないけれども、そういった無数の行為の連続の中だけに政治参加の糸口があって、そういう行為をやめないで続けることだけが、もしかしたら民主主義を獲得するプロセスなんじゃないかと思う。
ただその実態は何なのかはっきりわかっていない。なんとなく感じているのは、民主主義に固有のもしくは決まった方法が定まっているわけでもなく、時勢に応じて即時対応する柔軟なものだと思うし、時代や地域によっても大きく使われる方法が違うのではないかということくらい。したがって、僕は選挙と民主主義を全く別物だと思っているし、そもそも自分が知っている民主主義の方法だと思っているものは疑っているので、もしかしたら民主主義は居心地が悪いのかもしれない。ただ日本は、そうものんきに言ってられない状況なんじゃないかと思う時もある。日本の社会のなかで、多数決を取れば必ずといっていいほど、敗北してしまう方に入れてしまう僕は、このまま負けるとわかっている人に投票し続けることがどれだけ価値があるのかどうか。もしかしたら個人レベルでは価値のあることかもしれないし、投票しないよりいいという人もいるかもしれない。いや、そうなのかもしれない。現在のシステムにおいては、棄権をするで得られることはほとんどない、投票に行かざるを得ないかもしれないと説得されるかもしれない。
さて、ここからは具体的じにじゃあどうやって投票するか。数年前に北川貴好さんの紹介である選挙の候補者の手伝いをしたことがある。いわゆる選挙運動を手伝ったということで、生まれて初めてウグイス嬢(男性の場合はこう呼ばないらしいけど、関係ない)という車載マイクで候補者の氏名を連呼し、拡声機で路上の人々に強制的に聞かせる行為というのを経験した。仮にでも候補者の目線になってみることで、選挙ってこんな誰にも相手にされない幽霊みなたいなものだったのか、という落胆と絶望でいっぱいだった。立候補する方も、投票する方もほとんど意思疎通なんてできない。ウグイス嬢は名前を連呼するだけが仕事でそれ以上は許されない日本を馬鹿たれと思う。結論だけをいうと、支持政党がなければ個別に候補者のイメージだけで信任を可否を決めることになる。
思い出せば僕が生まれて初めて「選挙」というのを言葉で認識したのは、おそらく小学校の学級員を決める時ことだったと思う。その時は、たしかクラスの全員が無記名で候補者に丸かバツをつけるというものだったけれども、なんとなくこういう選挙というものは正しいのだ、ということになっていて、それ以上誰も追及することはなかった。ただ以上のやり方を僕はその時何も知らなかったし、今も分からない。それが大人になって選挙を手伝っても、大人もこれ以上のことは知らない。つまるところは、多数決で決まることになっている。今の価値観では、実務的には数が多いほうが勝つことになっているらしい。しかし掲げる理想に、集団は個人に勝てないことになっている。そういうことならば、やっぱり選挙そのものよりも、そこに至るまでの状況に関わるほうがよっぽど生産的なんじゃないかと思う。もしくは全く関わらないで、自分のやるべきことをやるのみか、なんていうことを今回投票に行けない僕は考えた。
*ちなみに、オーストリアでは先日大統領選挙があったのだが、どうやら選挙の過程で不正があったということで、やり直しになるそうである。
2016年7月10日丹羽良徳
丹羽良徳
現在ウィーンにいる。正確にいえば、ウィーン国際空港から日本に一時帰国する途中である。日本を出国した3月末、いつのまにか民主党と維新の党が合流して「民進党」というのを結党したというニュースをちらっと見て、また何か変な名前の党ができて、何がなんだかわかんねえな。とウィーンで思った記憶がある、実際は引っ越しでバタバタしすぎていて、それどころはなかったけれど。それから初めての選挙といことになって、僕は海外在住になっているので在外選挙人の名簿に登録しなければいけない。すでに手続きをしてあるが、3ヶ月要件といって現地に3ヶ月以上継続して住んでいることを確認されて(手続きだけは3ヶ月以前でもできる)それからようやく現地大使館を通じて日本の外務省へ情報が送られてるそうだ。そかもその照会になぜか2ヶ月くらいかかるそうであるが、理由は不明である。つまり、僕は3月末にウィーンに到着して6月末でようやく「3ヶ月要件」をクリアして、在外選挙人の名簿に登録を進めているのだが、投票可能なステータスになるのはここから2ヶ月かかるという説明なので、現実的に僕は今回の衆院選に投票する方法がない。つくづく不思議な制度だと思うけれど、選挙だけが政治参加の機会ではないはずのあので、投票にいけば、それですべて終わりだと考えてしまうほうのほうが、よっぽど怖いものだ。本来は、民主主義と呼ばれる制度のなかには、無数の政治参加の機会があって、出版することでも、声明だすことでも、食べること、逃げること、壊すこと、何でもかまわないけれども、そういった無数の行為の連続の中だけに政治参加の糸口があって、そういう行為をやめないで続けることだけが、もしかしたら民主主義を獲得するプロセスなんじゃないかと思う。
ただその実態は何なのかはっきりわかっていない。なんとなく感じているのは、民主主義に固有のもしくは決まった方法が定まっているわけでもなく、時勢に応じて即時対応する柔軟なものだと思うし、時代や地域によっても大きく使われる方法が違うのではないかということくらい。したがって、僕は選挙と民主主義を全く別物だと思っているし、そもそも自分が知っている民主主義の方法だと思っているものは疑っているので、もしかしたら民主主義は居心地が悪いのかもしれない。ただ日本は、そうものんきに言ってられない状況なんじゃないかと思う時もある。日本の社会のなかで、多数決を取れば必ずといっていいほど、敗北してしまう方に入れてしまう僕は、このまま負けるとわかっている人に投票し続けることがどれだけ価値があるのかどうか。もしかしたら個人レベルでは価値のあることかもしれないし、投票しないよりいいという人もいるかもしれない。いや、そうなのかもしれない。現在のシステムにおいては、棄権をするで得られることはほとんどない、投票に行かざるを得ないかもしれないと説得されるかもしれない。
さて、ここからは具体的じにじゃあどうやって投票するか。数年前に北川貴好さんの紹介である選挙の候補者の手伝いをしたことがある。いわゆる選挙運動を手伝ったということで、生まれて初めてウグイス嬢(男性の場合はこう呼ばないらしいけど、関係ない)という車載マイクで候補者の氏名を連呼し、拡声機で路上の人々に強制的に聞かせる行為というのを経験した。仮にでも候補者の目線になってみることで、選挙ってこんな誰にも相手にされない幽霊みなたいなものだったのか、という落胆と絶望でいっぱいだった。立候補する方も、投票する方もほとんど意思疎通なんてできない。ウグイス嬢は名前を連呼するだけが仕事でそれ以上は許されない日本を馬鹿たれと思う。結論だけをいうと、支持政党がなければ個別に候補者のイメージだけで信任を可否を決めることになる。
思い出せば僕が生まれて初めて「選挙」というのを言葉で認識したのは、おそらく小学校の学級員を決める時ことだったと思う。その時は、たしかクラスの全員が無記名で候補者に丸かバツをつけるというものだったけれども、なんとなくこういう選挙というものは正しいのだ、ということになっていて、それ以上誰も追及することはなかった。ただ以上のやり方を僕はその時何も知らなかったし、今も分からない。それが大人になって選挙を手伝っても、大人もこれ以上のことは知らない。つまるところは、多数決で決まることになっている。今の価値観では、実務的には数が多いほうが勝つことになっているらしい。しかし掲げる理想に、集団は個人に勝てないことになっている。そういうことならば、やっぱり選挙そのものよりも、そこに至るまでの状況に関わるほうがよっぽど生産的なんじゃないかと思う。もしくは全く関わらないで、自分のやるべきことをやるのみか、なんていうことを今回投票に行けない僕は考えた。
*ちなみに、オーストリアでは先日大統領選挙があったのだが、どうやら選挙の過程で不正があったということで、やり直しになるそうである。
2016年7月10日丹羽良徳